「信じるって、習慣化することが必要だから…」
と話している自分の言葉を聞いて、
なるほど!と思った。
普段、感じていても言葉にしていないことが、
人に質問をされると、
ふっと浮かび上がってきたりする。
しまわれていた、自分自身に再会する瞬間。
インドに行くようになって、
「信仰」というものへの、心の壁がなくなった気がする。
むしろ、「ああこれが、わたしの欲しかったものだな」という感じ。
特定の宗教や神さまを信じているわけではないけれど、
「信じる」ということが、
血のように、当たり前に必要なものであることを知った。
乱暴なまでに、ごくごく単純にすると、
信じられなくなるから、悩み、不安になるのだと思う。
そして信じることは、
叶えるために必要というよりは、
健やかに過ごすために必要だと感じている。
神棚をお掃除したり、儀式をしたり、
勉強をし続けたり、修行をするのも、
信じるということを日々の習慣にして、
強めていく行為だな、と思う。
スポーツ選手も、職人も、
道を極めていく人は、そういう意味で似ている気がする。
信じられるように、日々、自分に向かう。
自分の弱さも強さも知り尽くし、
成長を願って、一歩一歩、必要なことをしていく。
最近、自分でできるようになったことは、
不快な状態を気にし過ぎず、留まれるようになったこと。
特に、自分自身の感情の、
苦しみや、さみしさや、苛立ちや、恐れ。
そういう、好きでもないし、心地よくもない自分もいて、
「それでいいんだよ」って、
自分に言ってあげられるようになったこと。
今まではやっぱりどこかで、
不快な自分から、
どうにかして早く逃げ出そうとしていた気がする。
でも未だに、
それをそのまま他人に垂れ流すことができない。
それは性分なのかな~。
ほんとはそうした方が、
その場で消えていって、健やかな気がするんだけど。
「目がきれいだけど、食べものに気を使っていたりするの?」
という質問も、同じ時にされたのだけれど。
食べものはいたってフツー。
ラーメンとかも好き!スナック菓子も食べちゃう!
でも目は、
自分自身の内面のバロメーターかも。
目が澄んでいるときは、
信じられているとき。
自分の中でエネルギーが、
中心にぐっと集まり、
そこから外に向かって流れている。
目が濁ってきたときは、
不安なとき。
自分の中でエネルギーがとっ散らかって、
向きも混乱してるので、
いろんなところで滞り、流れていかなくなる。
自分に自信がなくなると、
人がうらやましく思えたり、
こんなわたしじゃダメだ~…という気がしてきちゃう。
人と自分を比べはじめたときは、
エネルギーを自分の中心に戻すこと。
社会や外からの目線も大事なものではあるけれど、
(社会とかかわって生きていくから)
でも原点は、自分の心が満足していること。
そこをまず、大事にしたい。
そうしてはじめて、心から、
祈れる自分に戻っていける。
祈りは行為よりも、心持ちやあり方だと思っている
(思ってるだけで、まだまだだけど、笑)。
そうすれば自然と、そこから行為が生まれてくるから。
もうすぐ畑のシーズン!
土や野菜といると、
シンプルな自分に戻る。
きっと彼らも、わたしの先生なんだろうなー。
0コメント