やっていることが変わっていっても、
自分の中で変わらぬものがあって。
それは、自分を広げること、だと思う。
自分を壊す、と、近いかもしれない。
小学5年生から大学生くらいまで、
油絵を描いていた。
なにが好きかと言えば…
まっ白なキャンバスに、
思いつきで「ここだ!」と筆を入れ、
どうなるかわからないものを描き出す瞬間。
なにかを見つめ続け、
発見し続けることの喜び。
絵ができあがってきたら、
その整ってきたバランスを打ち壊すひと筆を入れて、
またあたらしく描きはじめ、
繰り返しはじめられるところ、だった。
ずっと重ね塗りできるので、
終わりはあるようでない気がした。
30になる前、
大転機の引越しの時に、
この油絵の道具も含め、
捨てれるだけのものをぜんぶ捨てたので、
もう手元には何もないけれど。
そのときの記憶だけが、今も残っている。
記憶とは、摩訶不思議なもの。
うれしいとか、たのしいの中でも、
瞬間的に通り過ぎていくものだけじゃなく、
「生きててよかった」という、
深い喜びに通じるときがあって。
そこにはいつも、
同じものがある気がする。
道端や畑で、ちいさな命に出会ったとき。
こころを開いて、愛を流し合えたとき。
違和感を越えて、なにかや誰かをより好きになれたとき。
自分という枠組みが壊れて、
内から何かが、
弾けるように、湧き出すように生まれてくる。
愛ってこれかな?って思う。
そしていちばん落ち込むときは、
自分がそういうものと、
かけ離れてしまったとき。
後悔しないよう、
自分に正直に生きているわたしにとって、
人生で激しく後悔したときは、
そういうとき。
自分が好きじゃなくなったとき、
途端に道がわかりづらくなる。
「どうして人は、死ぬってわかっているのに生きるのか」
「地球にも終わりはくるのに、なぜ子孫を残すのか」
問いを投げかけられて、
わたしの中にポチャリと落ちたその小石は、
意識下でぐるぐると回転しながら、
意識の奥へと落ちていった。
わたしという一人の人としても、
人類という不思議な種族としても、
魂の成長を繰り返して、
素粒子に戻るように、
なくなっていくこと。
そんなことを、
目指してる気がする。
なくなるためには、
執着がなくならないと、
なくなれない。
なにかを深く愛するとき、
はじめて自分を壊すことができ、
自分という執着から解放される。
かといって、
その対象へあらたな執着を生むと、
また網にとらわれてしまう。
死を越えてなお残された心残りは、
ちょっぴり賢くなったあたらしい命とともにやって来て、
なくなることを目指す。
執着がなくなるまで人類は続く。
命のバトンと言うよりは、
魂のバトンなのかもしれない。
たくさん愛して、
自分というものを壊し続けて、
もっているエネルギーを愛として燃やし切った暁に、
やっと人生スゴロクをあがれる気がしている。
そういえば偶然、
インド占星術をしてもらえる機会があって、
「すごく古い魂で、今世が最後ですよ」と、しょっぱなに言われた。
たいした苦労もしてないし、
今はなんの問題もなくハッピーな人生なのに、
「やっと終われる!」という、
喜びがいちばんに湧き出た。
そんな自分が不思議だったけど、
スゴロクあがれる!って、
すぐに感じたのかもしれない。
燃やし切れたら、あがれるのかも。
嘘もほんとも、わたし次第。
いつかはなくなっていく、
バラの鉢植えを買ったことも、
なんだかわかる気がした。
ぴんくのミニバラ、かわいいよ!
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