南インド巡礼ツアーの中で、
わたしが毎年せっせと通っている、
ティルヴァンナマライも訪れることになっていた。
いつもひとりで自由に歩き回っているし、
静けさを大事にしたい場所なのに、
なぜわざわざたくさんの人と行くのだろう?
そんな疑問が、自分の中にあった。
でもなぜか、
みんなで行くことに「何か」があるんだよな、とも感じていた。
ツアー中、数日経ってから、
再びティルヴァンナマライに来れたのが、
たまらなくうれしくて。
12時頃寝たのに、3時半には目が覚めて、
そのまま瞑想とアーサナをしようとホテルの屋上に出たら、
満天の星空が待っていた。
ヨガマットの上にゴロリと寝転がって、星空を眺めていたら、
目の前に流れ星が現れて、
アルナーチャラの頂上に向かって、
一直線に流れて消えていった。
ほんとうに目の前ど真ん中だったので、
慌てることなく、くっきりと見え、
消えるまでがゆっくりに感じられた。
「なんて贈り物だろう!」と喜びに胸を膨らませながら、
ああ、あれは、アルナーチャラを恋しく思う、
わたし自身そのものだな、と思った。
ラマナ・マハルシが亡くなった時も、
アルナーチャラの頂上に流れていく星を、
たくさんの人たちが目撃している。
なんとなく気づいていたことだけれど、
わたし自身の体験なのに、
アルナーチャラでの出来事は、
ラマナの体験を追体験するような場面が多い。
はじめの頃、自分の内に深く入り過ぎて、
人と話せなくなったこと。
その頃は、食べものも飲み物も、
大していらなかったこと。
アルナーチャラの中にいるだけで幸せで、
道なき道を歩きまわり、
アルナーチャラに寝泊まりし、
ただただ、そこの空気に溶け込んでいたくて、
他に何もいらないと感じていたこと。
アルナーチャラに溢れている、
果てしない愛に浸って、
ひたすら感謝していたこと。
ラマナはわたしが生まれる25年前まで生きていて、
その体は、
みんなの集うサマディホールというホールに、今もある。
亡骸には、
聖なる灰を塗るなどヒンディー式の痛まない方法が施されて、
アルナーチャラの方を向いて、
結跏趺坐のポーズで、安置されているのだそう。
ラマナほどの人は千年はその意識が留まるよ、と聞いたけれど。
聖者の残した意識が留まっているから、
それを感じ取り、わたしも追体験するのだと思う。
なんてありがたいことなんだろう。
自分がこころの底から求めているから、
こころの扉が開かれて、
自然と流れ込んできたのだと。
振り返ってみると、そう思う。
熱心なラマナのディボーティー(帰依者)の人を見てきたから、
不勉強な自分がディボーティーと名乗るのは気が引ける、
と、今まで思ってきたけれど。
たくさんのディボーティーではない人たちと訪れてみて、
自分は明らかにディボーティーだと自覚した。
それは、観念した、に近い感覚でもある。
そう、今回の旅のテーマは、「自覚」だった。
みんなでお寺や聖山やアシュラムを訪れながら、
わたしの涙は出まくっていた。
自分の中に愛おしさが溢れて、
涙となって出てきてしまうのだ。
シヴァを奉ったお寺は、エネルギーが強くて、
貧血みたいに体が重い状態になり、
意識は、遠のくような、広がるような感じがした。
もうひとつ別の地で訪れた山でも、
同じ感じになったけれど、
破壊の神様であるシヴァのエネルギーを、
体感していたように思う。
(女神様の時には、こうならない)
そういう、目に見えないものを感じ取る、自分自身も自覚し。
そういう自分に、観念して。
なおかつそれを、隠すでもなく、特別視するわけでもなく、
人に、いつものトーンで話せている自分に、成長を感じた。
世界はひとつながりの意識(イーシュヴァラ)だから、
わたしとわたし以外という壁は、存在しない。
だとしたら、目に見えないことを感じ取るのは、
とても自然なことが起きているだけ。
ギリプラダクシナという、
アルナーチャラ山の周りを一周、
歩いて回る巡礼があり、
それもツアーのみんなで行った。
歩く速さは人それぞれなので、
14km歩けば差が出てきてしまう。
どうやって行うかを、
主催者の人たちが思案していた。
そこでするりと、
「わたしが最後を歩きます」という言葉が出てきた。
「すごく時間がかかっちゃうかもしれませんよ」と言われたけれど、
それがわたしのやるべきことだな、と、その時に直感した。
ただ最後を歩いただけだし、
途中道に迷う人もでてしまったけれど。
それでもあとで、
「安心して歩けたわ、ありがとう」
と言われたりして、うれしかった。
わたしは、
シヴァに、アルナーチャラに、ラマナに、
たくさんの恩寵をいただき続けているので、
どこかにそれを返したい気持ちが、
どんどん膨らんでいる。
それは別に、日本で、
ぜんぜん関係ない場面でもよいのだけれど。
自分の好みとしては、
ひっそり神様とだけ話していたいな、
と思うのに、
ついつい、いろんな人や出来事を受け入れてしまうのは、
恩寵へのお返しをしているのかも。
無意識に。
自覚を経たわたしは、
これから、今まで通りの生活をしながら、
大いなるものとの時間を意識的にもって、
その繋がりを濃くしていくのだろう。
そこに深い喜びがあるから。
今までもそうだったけれど、
さらに意識的に。
もちろん、それ以外にも、楽しいことはいろいろあるし、
喜んだり、悲しんだり、苦しんだりもするけれど。
そこに翻弄されてしまうことは、
減っていくのだろうな。
ただ通り過ぎてゆくものと、
ずっとあり続けるものと。
そのふたつともが、
わたしの世界をつくっている。
それがわたしをいちばん成長させてくれる道なんだよね、きっと。
「何であれ起こらない運命にあることは、
いかにあなたが試みても起こらないだろう。
何であれ起こる運命にあることは、
いかにあなたが避けようとしても起こるだろう。
これは確実である。
それゆえ、最善の策は沈黙にとどまることである。」
ラマナの言葉は、
その意識を体験した後に、
深く深く響いてくる。
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